タクシー会社の再建をきっかけにベンチャー企業を設立!起業3年目にして、3社と計1.5億円の資本業務提携を結んだ徳島の若きベンチャー起業家に聞く
株式会社電脳交通
代表取締役社長 近藤 洋祐氏
今、徳島で最も注目されるベンチャー起業家の近藤 洋祐氏。18歳の時に、メジャーリーガーを目指し、単身で渡米するなど異色の経験を持つ。祖父の経営する廃業寸前だった吉野川タクシー有限会社を27歳で承継。吉野川タクシー有限会社を、「会員制妊産婦送迎サービス」などの革新的なサービスの提供やITも活用しながら業績を回復させ、再建を果たす。そして、その道中で生まれたアイデァを詰め込んだ「クラウド型タクシー配車システム」を共同開発し、配車業務も代行するサービスを新しく設立した会社「株式会社電脳交通」より全国へ販売。JapanTaxi、NTTドコモ・ベンチャーズ、ブロードバンドタワーと資本業務提携を行い、タクシー業界に新たな風を吹き込んでいる。
近藤洋祐氏に、電脳交通のサービスを誕生させるまでのプロセス、彼自身の半生、そして徳島でのビジネスの可能性についてお聞きしました。
上:タクシー会社の再建をきっかけに、ベンチャー企業を設立
中:強いメンタルと挑戦のマインドを養った近藤洋祐氏の半生
下:自分を最も活かせるフィールドが徳島にあった
でご紹介します。
<中>強いメンタルと挑戦のマインドを養った近藤洋祐氏の半生
――野球との出会い、そして挑戦
ITのベンチャー起業家として注目を浴びる近藤洋祐氏。だが、本人は、IT企業経営者ではなく、タクシー会社の代表だという意識が非常に強いという。
近藤氏が野球を始めたのは高校から。
それまでたくさんのことに興味を持ちチャレンジしてきた中で、最も掘り下げたのが野球でした。とはいえ、高校から野球をはじめ花形のピッチャーとして活躍しようという目論見は周囲には理解されず、馬鹿にされながらも、「それも当然――」と冷静に俯瞰していました。
周囲の選手へのリスペクトもあったからこそ、同じやり方だと追いつけない、自分だけの努力が必要だと、必死に考える中で『創意工夫の癖』が磨かれていきました。部員が帰ってからも練習するのは当然。デジカメを使ってフォームをチェックし、科学的な筋力トレーニングもする。今では珍しくない練習法ですが、当時、自主的に行っている選手は周囲にはいませんでした。
野球を始めた高校1年の時に、イチロー選手が渡米し、メジャーリーグで大活躍をする。その姿が心に刺さり、メジャーでのプレーを夢見るようになりました。野球のエリート街道からは全く外れていることは自覚しましたが、前例がないこともモティベーションになりました。初めて夢中になれたものだから他人の常識や固定観念に縛られずに、自分のやり方で突き詰めたい。高2の頃には、周囲に卒業後は渡米してメジャーを目指すと公言していました。
――アメリカで経験した「結果を出す」ことが全てという世界
18歳で渡米したアメリカは、チャレンジする者には敬意が払われ、結果を出さない者には厳しいシビアな社会でした。偏見の残る田舎町で、アジア人は自分一人だけ。目立つ存在なのでなおさら視線は厳しく、少し気を抜くと「お前、なんでアメリカにいるの?」と言われてしまいます。
周囲は野球エリートばかり。ドラフトにかかったが年棒が気に入らずに断って来た選手や、ベネズエラから奨学金で留学して将来家族を養う責任を負ってプレーしている選手。初めての一人暮らしではマリファナ中毒者だらけのアパートで、家電が盗まれるのは当たり前。郵便物は必ず開封されていて、中身は盗まれている。遠征先で食べようと手作りしていたサンドイッチまで盗まれたこともありました。
アメリカでの経験で貧困層の飢えや貧しさの実態を、身をもって知りました。常に緊張感を持って生活することを強いられたが、それが心地よくも感じるようになりました。チャレンジをしない、チャレンジして失敗しても成功しても、なんとなくそのままという日本の文化とは違う。生存本能のようなものが働いて、生き抜くために自然と必死になれたのです。
実は、アメリカに渡り、すぐにひじのじん帯を損傷してしまい、周囲からはあいつは終わったと言われました。アメリカでは努力の過程は評価されないし、言い訳も通じません。その一方で結果を出したら手の平返しで称賛するのも当たり前。生き残るために野手へ転向し2軍から1軍へ昇格。初めて1軍に出場した試合では全打席ヒットという成績を残すこともできました。アメリカでは不利な形勢でも結果を出すことに徹底してこだわる、そのために失敗を恐れずに必死にチャレンジするという自分の性格をより強固にしたと思います。でも、1軍定着はできず、チャレンジは失敗に終わった。帰国の飛行機の中は悔しかった。世界中の文化が入り乱れているあの空間が好きでしたから、そこから離れる寂しさも感じました。
野球の経験、そしてアメリカでの経験を通して、「結果を出すこと」にこだわる文化、そして、生き残るための「生存本能」を身に着けた近藤氏。日本、そして徳島へ帰国後、吉野川タクシーの再建を目指した理由、そして飛躍する電脳交通を作り出すことができたエピソードにせまる。